プロフィール

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こちらのブログにご訪問いただきどうもありがとうございます。

サイトを運営しております「かげどん」と申します。

詳しいプロフィールや思いをお伝えしたいと思います。

よろしければご覧ください。

ちなみに、『かげどん』というペンネームですが、

ぶきようだけど、地道に『かげ』でがんばっているすべての看護師さん。

大変な夜でもいつか夜明け(ドーン Dawn)がやってきます。

という前向きな気持ちを含んだ意味を含んでおります。

また、X(旧ツイッター)@bukiyousan_704では、ブログ以外での看護師として経験した一コマイラストや四コマ漫画を不定期でアップしておりますので、興味がございましたらこちらもどうぞ。

生まれた頃

はっきりお伝え出来ませんが1970年代の生まれのアラフィフです(笑)

居住地

北関東です。

略歴

1990年代に高校卒業後病院で働きながら看護学校へ通い、看護師免許取得

転勤も経験し、ぶきように働き続け、何を間違ったか断れずに主任看護師を6年半経験

一度体調を崩し退職後健診、クリニックや、献血業務などの転職を経験

通信制の大学で学び、卒業 産業カウンセラーの資格も取得

2021年~ 看護師歴20年を超え、施設のご長寿と楽しく過ごす

ひとことで言うと、看護師ぶきようさんです。ぶきような看護師をずっと続けて今でも経験を積んでいる途中です。

1、社畜ナースとして

18歳から病院という命に係わる現場で様々な経験をしてきました。覚えるのも身につくのも何をしても時間がかかる私。毎日病院で揉まれながら過ごしてきました。私の場合、断らない、断れない性格が社畜ナースの要因ではないかと。でもどのみち断ってもやっぱりお鉢は回ってきましたね(笑)ぶきようながら色々経験する中で、いつの間にか社畜ナースになり、なぜか主任看護師になってしまったのです。体も壊しましたが、今では(ここがポイント)結果的に色々経験してよかったんだと思っています。私は仕事で無理しない事に決めました。できない事はやんわりと、でもしっかり断る。断らない事で弊害が起きる事だってあります。無理は禁物。いっぱい抱えている仕事があるのにさらに仕事をしなければいけないってそりゃ、ミスも起きるし体も壊れますから。(経験者)

2、友人と趣味に恵まれる

友人に恵まれ、社畜ナースの傍ら様々な趣味をしてきました。ぶきようで、人と関わるのが苦手だった私にとって、友人との出会いがなければ仕事以外に人と関わる事もごく少なかったでしょうし、色々な趣味と出会う事もなかったと思います。趣味は仕事ばかりの人生に愉しさを教えてくれました。

3、何でも興味を持つ

もともと好奇心旺盛な性格で、なんでもしてみたくなります。趣味も友人に誘われるとすぐその気になってやってしまう(笑)人が「いいよ」という事は一度は試してみたくなる。結構ミーハーです。

なんでも興味をもつものですから、勢いで通信制の大学に通っていました。ぶきような私は卒業するまでなんと10年もの月日を費やす事になってしまいました。仲良くなった仲間は私よりどんどん先に卒業してしまい、大学院へ進学した方もいます。お金も時間もたくさんかかりましたが、たくさんの素晴らしい教授に出会えて様々な学びを得る事ができました。

4.でも自信がない

色々経験してきたくせに自信がない性格です(笑)結構ビビりです。ぶきようなので仕方がありません。それでもこれからも挑戦していきますよ!

感染症渦で大変な看護師さん、本当にお疲れ様です。

こんな世の中ではユーモアのある事を言っても行動してもなんだかいけないような気持ちになってしまうかもしれません。でも、看護師さんたちあるいは、看護師を目指している方にちょっとでも笑ってほしくて下手なブログと下手なイラストを始めてみました。また、ぶきような看護師の私が経験した事を少しずつお伝えしたいという思いもあります。

かつてぶきようながら主任看護師として働いてきた日々。

まだまだやりたい事がありましたが、原因不明の体調不良、不妊治療のために退職を余儀なくされました。体調不良の原因がわからず、あちこち受診もし、心療内科で「双極性障害」といわれ投薬しましたが症状はかわりませんでした。数年後、不妊治療の一環で不育症の専門クリニックを受診したところ「橋本病(慢性甲状腺炎)」が判明。ようやく長年の原因不明の原因がわかり、ほっとしたのを覚えています。今では投薬し、かろうじて元気に過ごしています。(時々寝込みますが)こんな思いはだれにもさせたくないので、家族、友人、知り合った方には甲状腺疾患についてお話させていただいています。ブログでもお伝えしていければ、と思っています。

かつて、私が就職したのは1995年。その年に阪神淡路大震災が発災しました。

この災害を目の当たりにした私は、何もできないのに

『ここへ行かなければ』

と、猛烈に思ったのを今も覚えています。

それから私は看護師として学び、主任看護師となり、現場で働きながらいつしかDMAT研修を受け、こころのケア指導員を目指しつつ災害教育に携わるようになっていました。

1995年から16年後。

東日本大震災が発災。

私は、石巻の地にいました。

そこで経験したことを踏まえ、こころのケア指導員を取得。災害教育を職員へ根付かせたい、と意気込んでいました。

しかし、その思いとは裏腹に橋本病のせいでどんどん体調は悪くなります。

結果、夢半ばで主任看護師を退職。

橋本病がわかったのは主任看護師として退職してなんと約四年後の事でした。典型的な橋本病の症状ではなかったのが診断されるまで時間がかかった要因ではないか、と思います。とにかく朝がつらかった…それが甲状腺ホルモンの薬を飲んだらみるみる良くなるんですからビックリです。

主任看護師を退職した時は自分自身大変落ち込みました。激しく落ち込み、ドクターヘリや救急車や医療ドラマを目にするたび涙を流し、災害が起こるたび何もできない歯がゆさを感じ・・・私はもう人として意味がないのではないか、とまで。いやー本当に追い詰められていましたね。

昔、父が長年の交代勤務の仕事から日勤のみの仕事へ異動になった時、すごく落ち込んでいたのを覚えています。ですから、なんとなく父の気持ちがわかります。(でも結果的に父にとっては良かったのか?聞いてないのでわかりませんが…)

元気だったら、もっと体を労わっていたら…主任看護師は続けていたかもしれません。ですが、私の社畜ナースぶりからいって橋本病にならなくても、いつか別の病気になっていたでしょう。それに元来、人間には向き、不向きがあります。仕事とプライベートの切り替えが下手な私ははっきりいって管理職には向いていないといえます。それでも今となっては経験してよかった。こんなぶきような私でも主任看護師を経験できた事に今は感謝しています。それは、災害教育を含め今でもたくさんの学びがあるからです。そしてそれは、今の私に活きています。

看護師としてこのように色々な経験をして参りましたが、看護師さんに対して思うのは「とにかく毎日楽しく健康で過ごしていってほしい」という事です。

看護師は私にとって自分を表すようなものだったのだと思います。だから、ぶきようながら必死で働きました。途中で主任看護師に昇進して、もっと必死に頑張りました。でも、それに逆らうかのように体調はどんどん悪くなる。しょっちゅう頭痛がするし、突然腹痛、下痢に襲われるし、イライラするし、腰痛にも悩まされる様に。昇進後に縁あって結婚しましたが、自宅にも仕事を持ち込む様な生活が続きました。結果、不本意ですが退職しました。若い頃からずっと頑張ってきた事を途中でやめるのは非常に勇気がいりますし、とても落ち込みました。ですが、体調不良で退職を余儀なくされたのも自分のせいなので仕方がないと今では納得しています。結果的に主任看護師をやめた事は忙しすぎた自分を振り返るきっかけになったのでよかったんです。おかげで自分を以前より労わるようになりました。

そして、もう主任看護師をしていた頃には戻れないけれど、経験は伝えていける、ということに気付いたのでした。

私の様々な経験は、悩んでいるひとのために捧げていこうと思っています。

人は何か起こらなければ振り返らない生き物です。経験したからこそ、自分と同じ思いはしてほしくない、自分を労りながら健康で楽しく過ごしてほしいです。

今でもほそぼそ看護師という仕事を続けていけるのは家族のお陰、一緒に働く同僚・上司のお陰、そして健康なこころと体をもっているという事です。続けていけるというのは、幸せな事ですね。

看護師は頭脳労働、肉体労働に加え、感情労働も加わるとてもハードなお仕事です。頭も体もこころも疲れる看護師さん、いつも笑顔で本当に立派だな、と思います。私は残念ながら第一線を外れましたが、今後もぶきような看護師さんや看護師さんを目指す方、私の様なリタイアナースをこころから応援していきたいと思っています。そして、幸せな毎日が過ごせるよう願っています。

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